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フィンテックの話 2

今回はフィンテックの一つの大きなカテゴリである、ビットコインに代表される「仮想通貨」について書きます。

2014年2月、一つのニュースがマスコミをにぎわしました。
仮想通貨の取引所である「マウントゴックス社」が470億円もの損失を出したということで民事再生法の適用を申請しました。それまで「仮想通貨」というのがあまり日本ではメジャーではなかったものが、この報道で一気にメジャーになり、多くの人が初めて耳にすることになった「ビットコイン」なるものに興味を示しましました。
しかし、「仮想」という言葉のもつニュアンスや、ハッキングされたことで「貨幣」を失ったこと、投機対象になっているとこと、などといったことから「ビットコイン=怪しい」といったイメージがついてしまいました。
そして2015年9月11日、東京地検あ元CEOであるマルク・カルプレス氏を業務上横領などの罪で起訴したことからさらにビットコインのダークイメージが決定的になってしまいました。このニュース以降、ビットコインへの日本社会の興味がかなりさめてしまったように思います。
まぁ、実態としてはビットコイン熱はそれほど覚めてはいないのではないかとも思うのですが、ビットコインが一般人は扱えない「際物」扱いされているのは間違いないでしょう。

しかし、ビットコインを代表とする「仮想通貨」の技術はとんでもない可能性を秘めており、この技術がが近い将来世界の金融を根底から覆す可能性は十分あります。日本ではあまり話題に上ることはありませんが、世界では現在の「通貨」と置き換わってしまいかねない流れになっているという事は理解しておく必要はあると思います。 

ところで、日本では「仮想通貨」という言葉が一般的ですが、正確には「Crypto Currency」ですので「暗号通貨」という呼ぶべきであり、その方が本質をついていると思われます。
ただ、余計な混乱を招いてもしかたがないので、この記事では「仮想通貨」という呼び方で通したいと思います。

本来「通貨」というのは国家が中央銀行を通じて統制をかけることでその国の経済を統制するものです。
しかしこの「仮想通貨」には国家や銀行の介在がありません。そのため便宜的に「通貨」と呼んでいますが、その実態は「コンピューターネットワーク上の取引プラットフォーム」であり、分散データベース上のソフトウェアです。
そして、その「取引」の信頼性を保証する技術が「ブロックチェーン」と呼ばれるもので、ビットコインなどの仮想通貨はこのブロックチェーンの技術に支えられています。

このブロックチェーンですが、「仮想通貨の取引履歴」であり、
「ナカモト サトシ」という天才にによって生み出されたビットコイン技術とともに、それをを支える技術として併せて開発された技術です。
「ナカモト サトシ」なる人物が誰なのかは「候補者」はいるものの、いまだに確定されていません。しかし、彼がネット上に公開された一つの論文からビットコインは始まったというのは間違いありません。
「ナカモト サトシ」がだれであろうと、彼が大変偉大な人物であることは間違いありません。

で、肝心のその仕組みですが、これがけっこうややこしいです。
何しろ「目に見」えて「触れる」お金ではないので直観的に理解しづらいというのが本音です。

大昔、取引は石板にそのすべての取引の記録を刻み付けて残していました。
石板にのみで刻み込むため、一度つけられた記録は削除もできないし、改ざんもできません。それに「石」で頑丈ですから長期間保存も可能です。こういった特性から「取引記録」に対する信頼性はかなり高いものになります。
誰かが、「自分は金貨100枚持っている」と主張しても、その取引記録がなければ、それは嘘か不当な手段で手に入れたことになります。ちなみにブロックチェーンの「ブロック」とはこの「石板」からつけられています。
この「取引記録の信頼性」が非常に重要であり、これが金融の根幹をなしているといっても過言ではありません。

話は少し変わりますが、なぜ「金」は価値があるのでしょうか?なぜ「金本位制」なるものが成り立っていたのでしょうか?
確かに「金」は見た目もきれいですし、柔らかくて加工もしやすく装身具の材料としてはぴったりです。しかし、金の本当の価値は、
1.総量が少なく、絶対量が限られている
2.変質、変化しにくい
3.人間が作り出すことができない
といった特性にあります。

実は仮想通貨にも同様の特性があります。
先ほどのブロックチェーンの技術が「石板」同様にネットワーク上の取引の「信頼」を確保する有効な手段であり、その技術に支えられている仮想通貨は金と同じような特性を持つことができます。
1.総量が決まっている。
マイニングという発掘作業を行うことで仮想通貨が得られますが、取引というのは「無限」ではないので最終的に仮想通貨は有限であるといえます。
2.変質・変化しにくい。
ブロックチェーン技術が「取引」を保全することで、その「通貨」は偽造も改ざんも不可能です。
3.人間が作り出すことができない。
「仮想通貨」自体が人間の作ったものではあるのですが、その「残高」を人が勝手に作ることはできません。先にも書きましたが、仮想通貨は「取引」をするかマイニングということをしない限り手に入りません。

ネット上の通貨だから、何となく、勝手に改ざんしたりできるのではないかなぁ・・と考えたりもします。
実際に銀行残高などもハッキングなどによって勝手に書き換えられたりして損害を受けたといったニュースもよく聞きます。
しかし、ここで間違ってはいけないのは、
仮想通貨自体は「偽造することができない」という事実です。つまり、取引の記録を完全に保全するブロックチェーンによって、仮想通貨の流れは完全に記録されます。すると、いくら自分が「ビットコインを100ビット持っている」と主張しても、その記録がなければその主張は通らないということです。

仮想通貨というのは「金」と似たようなものだと考えたらわかりやすいかもしれません。
つまり、仮想通貨はどこの国にも、どこの銀行にも統制を受けません。
なぜならば「金」がほしければ「買う」か「発掘」するしかないわけです。
自分で作ることもできませんし、国や銀行であっても作ることはできません。
発掘しなければ市場で買うしかないわけです。
売買されるわけですから価格も変動します。仮想通貨も売買されており、そのための取引所が多数存在します(先のマウントゴックス社もその一つです)。
そういう意味では「金融商品」としての性格は「金」と「仮想通貨」は非常によく似ています。
ただ、違うところは、「仮想通貨」の「マイニングの自由性」です。
金は埋もれている場所は世界でも限られており、産出国はその金に対して採掘量の調整などといった強い統制をかけることができますが、仮想通貨はそうではありません。
ネットの環境とパソコンさえあれば、場所を選ばず、国や銀行の規制を受けることなく自由にだれでも採掘することができます。もともとビットコンはこうした公平性を目指して作られた「通貨」でもあります。
もっとも最近は大掛かりな「採掘手法」を大資本が導入して力づくで採掘していっているため、そういった初期の理想がつぶされつつあるのが現実です。

また、仮想通貨はその「通貨」という名前の通り、それ自体でものを買ったりする「決済」機能があります。原則「金」自体でものを買うことはできません。できないわけではありませんが相当ややこしいことになります。
ネットを通じてスマホさえあればだれでもどこでも使えるので仮想通貨の流通性はかなり高いものになります。現に日本でも「ビットコイン決済可能」というお店がちらほらと見受けられるようになっています。世界ではもっと普及していると思われます。

先のマウントゴックス社の事件では、その金融商品取引の性質を逆手に取られ、取引システムが自体がハッキングされ、超格安での取引を行うという方法でビットコインが別のアカウントに不当に移されるということになってしまいました。
まだまだ仮想通貨には考えなければいけない部分もあり、法律的な面での考察も必要です。

仮想通貨の仕組みを説明すると偉そうなことを言っておきながら、前説がやたら長くなってしまいました。
すみませんが、仕組みの説明は次の記事に回したいと思います。

フィンテックの話 1

最近はまっているというか、結構真剣に勉強していることが2つばかりあります。
一つは「マインドフルネス」。これは7年ほど前にグーグルに勤めている友人から教えてもらって、それ以来ずっとメンタルヘルスの一環として実践してきているものです。最近けっこうテレビなどでも紹介されて名前くらいは知っているという方も多いのではないかと思いますが、それでも認知はまだまだです。これについてはいずれ詳しく説明したいと思います。

もう一つが表題の「フィンテック」です。
これも最近急に話題になってきましたね。
日本ではまだまだフィンテックのすごさがわかりにくいのですが、今や世界はこのフィンテックに席巻されつつあります。
で、今回はその「フィンテック」のお話です。

「フィンテック」というのはアメリカで作られた言葉で、Financial Technology の略です。Technology は IT(Information Technology) が主になりますので、直訳すると「ITを活用した金融」となります。
「ITを活用した金融」というと、すぐに頭に浮かぶのが株の売買などのネット化です。このネット化というかコンピューターを使った金融商品の売買の仕組みは世界の金融の在り方を塗り替えました。また、金融工学という学問が発展し、それがコンピューターテクノロジーと連携してさらにはAIと結びつき、もう一素人が理解できる水準を超えてしまっています。今の金融取引は個人にとっては遠い遠い世界の話になってしまっている部分が大きくなってしまっています。

しかし、私がここでいうフィンテックというのはこういったものではなく(もちろん広義の意味では含まれます。Fintech1.0と呼ぶカテゴリに入るようです)、ここ数年急に存在感を表してきた金融ビジネスの既存システムを打ち壊すもの「ディスラプター(破壊者)」と呼ばれるもの台頭から始まる「金融革命」のことをいいます。

ディスラプターというのはその名の通り「破壊」するものです。既存の金融システムをITを駆使して「破壊的イノベーション」を起こし、大企業が支配する金融の牙城を切り崩す、というイメージかと思います。
実際、「スタートアップ企業」と呼ばれるベンチャー企業群が最初は不便でチープな隙間をぬうような取引だけしかできていなかったのが、1年もたたずに大変な取引額を達成し、気が付いたら金融・経済界で確固たる地位を築いてしまっている、そういったことがアメリカではごく普通に起こっています。
Apple、Google、Amazonといった皆さんにもおなじみの企業もそういったディスラプターです。
こういった企業群は主に Fintech2.0に区分けされる技術を使っていますが、さらに3.0 4.0といった分野にも積極的に進出していっています。

なぜ、ここ数年でフィンテックが発展してきたのか?

1.インターネットという世界ネットワークの拡大。
2.スマートフォンなどのモバイル環境の進化。
3.ネット社会の進歩に伴うビッグデータの蓄積


といった点がポイントかと思います。
特にスマートフォンというプラットフォームの進化は金融だけでなく、人のコミュニケーションそのものを劇的に変化させました。
そして、それは「送金」というお金の「流通」において画期的なイノベーションを起こしています。
おサイフケータイや通信料金へ支払額を加算するネットショッピングなどの支払い代行サービスなどもそれにあたります。
しかし、日本ではあまり必要性を感じることがないと思いますが、海外では「お金を送る」「支払いの決済をする」ということは想像以上に大変であり、コストがかかるものでした。ましてや海外送金など、下手をすると相手にお金が届くかどうかすら不明という場合もあります。
そういったリスクや不便さを埋める形でいろいろなサービスが考案されてきています。

日本国内では法人も含めた居住者のほぼすべてが銀行や郵便局の口座を持っており、その口座を活用することで簡単に安価で即座にお金のやり取りができます。
また、お店で買い物したりするときも「現金」が普通に流通します(信じられないことですが、外国では紙幣が詐欺や偽札の疑いがあるということで使用できない地域もあります。私も以前とある国で現金支払いを拒否されたことがあります)。
それは日本における金融機関や決済システム、現金に対する「信頼」でもあります。

一方、外国では国内であっても振り込みをするのに何千円もかかる場合もありますし、相手に振り込まれるまで1週間以上かかるというのもよくある話です。
クレジットカードを活用することで小口決済はだいぶ利便性が上がってきてはいますが、買い物ではなく「お金」そのものをやり取りする仕組みは大手金融機関などを通していてもなかなか完了できない場合があります。
何しろ取引をしようとしても相手が銀行口座を持っていない場合だって結構あるわけで、そうした相手とどうやってお金のやり取りをするのか、というのは実に切実な問題です。
こういったことを背景に、世界ではスマートフォンや携帯電話のショートメッセージなどを活用した決済サービスがベンチャー企業によって次々と提供されており、それまで金融機関の重要なテリトリーであった「決済」の部分が取り崩されている、というのが現状です。

フィンテックはそういった「お金の流通」を基盤としたサービスから始まったと言ってもいいのではないかと私は考えます。
「お金の流通」から「お金の活用」に進み、さらには「お金の創造」へと進んできているのが今のフィンテックです。
日本ではまだまだフィンテックを実感できる環境ではありません。それは日本の環境が非常に高度なものであるからであり、金融機関はそこにとんでもない額のお金を投入しています。
しかし、もし、そういった多額の投資をしなくても、今と同等のサービスが受けられるとしたら、どうでしょう。
「銀行なんてなんのためにあるの?貯金しても利息もつかないし、ATM使っても手数料取られたりするし」なんて声もちらほら聞こえてきませんか?
個人にとって銀行などの金融機関の存在意義が変化してきているのは事実です。
「銀行不要論」は今はまだ極端な話かもしれませんが、フィンテックが成長してくると、投資や金融がどんどん銀行から離れて行ってしまいます。近い将来銀行の役割が大きく見直される時が必ずやってきます。

最近、フィンテックによる銀行の危機が叫ばれています。それはこれまで書いてきたことも一つの理由ですが、もう一つ大きな理由があります。
それは「お金の創造」です。
最近耳にすることが多くなってきましたが「仮想通貨」なるものが世界を巻き込んで大革命を起こしつつあります。

長くなりましたので、これに関してはは次の機会に譲ります。

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「愛社精神」って死語?

「愛社精神」最近聞きませんねぇ、この言葉。
昔は何かあるたびに「お前には愛社精神ってものがないのか!」てな感じでよく使われていたのですが、最近は本当に聞かなくなりました。
今となっては死語なのでしょうか・・どうもブラック企業のキーワードにさえなってきている感じです。

私が最初に入った会社はバリバリの日本企業で、今から思えばちょっと体育会系で、何かというと「会社のため」というフレーズがけっこう飛び回っていたように思います。
私の会社だけでなく、そのころは「愛社精神」とか「滅私奉公」とか言った言葉が平然と言われており、何事においても個人よりも会社が優先というのが当たり前でした。
私の前の戦後の岸内閣の所得倍増計画から始まった高度成長のころには「愛社精神」は完全に「美徳」でありました。そしてそれは社員個人だけでなくその家族をも巻き込んだものでした。
ただ、時代は移り変わっていき、バブルがはじけたころから仕事より個人を優先させる風潮が強まってきました。といってもこれは社員のライフスタイルを変える、という考え方が台頭してきたというわけではなく、日本経済の低迷の中で仕事そのものが減ってきたことから生じてきた考え方でもあります。
ただ、それでも会社にとって都合のいい「愛社精神」という言葉は根強く残っていたように思います。
サービス残業を山のようにしても「会社のためだ」とか、「会社がなくなったらそっちの方が困るだろう」とか言って「愛社精神」を押し付けられて来ているのが昨今です。
ただ、さすがの「愛社精神」という言葉も最近はほとんどその力を失ってきているように思えます。
あの、大不況のさなかの整理解雇の嵐が吹き荒れていた中でさえ「会社を思うなら会社のために辞めてくれ」なんて言うふざけた理屈がまかり通っていたにもかかわらず、最近はそんな言葉を聞くことはありません。
なぜ「愛社精神」という言葉が消えつつあるのか、それはここ数年の企業のリストラや、日本企業も多国籍化する中で外資のポリシーを導入せざるを得なくなっていることなどから、会社と従業員の関係がウェットなものからドライなものへ変化しているという事があげられます。
まだ新卒では「長期雇用」を前提とした採用計画を作りますが、社内においては社員と仕事のマッチングを重視しはじめ、人情などの入り込む余地がなくなってきて機械的な雇用関係に変化してきています。
そしてそのドライな関係に輪をかけたのが「成果主義」でした。この「成果主義」は考え方は大変すばらしいものでしたが、実際に運用されると「個人の短期的成果」が最重要視されるようになってしまい、チームワークすら否定されかねない状況に陥ってしまいました。

リストラは「会社」に対する期待感と帰属感を薄め、外資、特にアメリカ的雇用関係と成果主義の台頭は社員と会社の関係を契約というドライなものへ変質させていきました。
こういった環境の中で「愛社精神」が入り込む余地がなくなってきた、というのが実情でしょう。

「会社のため」という言葉の中で育ってきた私としては少々寂しい思いもありますが、人生を会社に捧げる、という過激な考え方が薄まったことには安堵しています。
ただ、自分が縁あって務めているのですから、「仕事ですから」と割り切るのではなく「この会社が好きだから働いて誇りに思う」といった意味の「愛社精神」はもってもらいたいな、というのが私の考えです。
そうでなきゃ幸せではないでしょう

卵かけごはん

気が付いたらブログの更新が完全に止まってました。
世間様はお盆休み中という感じなのですが、個人事業主である私には関係のない話のはずです。ところが完全に世間の波にのまれて休み気分に浸ってしまいました。
それと、やっぱ暑さですね。暑いと本当に何もする気がなくなります。
私の事務所兼自宅ではクーラーがついてはいるのですが点けることはほとんどありません。
暑いのは暑いのですが、我慢できないこともないので、何となくつけずに過ごしています。これは熱中症予防としてはいけないことらしいですね。
本当に体には気を付けないといけません。

ところで、タイトルの「卵かけごはん」ですが、実はこの2週間の間に、たまたま、卵かけごはんを食べる機会が何度かありました。
昼や夜に外食した際にいわゆる「こだわりの卵かけごはん」を食べることができました。
それはおいしかったです。
お米や卵、そして醤油、いずれの店も本当に素材からこだわりぬいていて、さらに、食べ方にもこだわりがあります。
おいしくなはずがないです。
いや、おいしいくなければいけないです。

でも、ちょっとめんどくさいかな、とか、うざいかな、と考えたりします。

私にとって一番の卵かけごはんは、
炊き立ての普通のごはんに、普通の卵をかけて、そこに普通の醤油と少々の味の素。
これが一番です。

卵かけごはんに味の素をかける。これが私のお気に入り、というか普通だと思っていたのですが、ちがうのでしょうかねぇ・・



不当解雇を争っている間に働いたら・・

先日の大阪労働大学にて勉強したこと。
自分の実務上でも経験があっていろいろ学習したはずなのにきれいに頭から消えてました。
今日はその備忘録代わりとして記事にします。

で、お題は「解雇不当を争っている間に別の仕事について給料をもらっているいた場合、解雇無効がみとめられたら、いくら未払い賃金を会社に請求できるか」です。
ちょっと長いですが、要するに、
解雇無効を争っていた期間に、別の仕事をして収入があった場合、解雇無効を言い渡された会社はその労働者にその期間の給与全額うぃ払わないといけないのか、ということです。
解雇無効の争いは裁判にでもなれば2年や3年というのはざらです。当然その間は争っている会社からは給料は出ませんので労働者は生活のためにどこかで働いて収入を得るというのも考えられることです。
そして、解雇無効が認定された場合、

民法第536条第2項
債権者の責めに帰すべき事由によって債務を履行することができなくなったときは、債務者は、反対給付を受ける権利を失わない。この場合において、自己の債務を免れたことによって利益を得たときは、これを債権者に償還しなければならない。


の規定によって、解雇不当の争いを行っている間は「不当解雇をした」会社(債権者)の責めによって、労働者(債務者)は働けなかった(債務を履行できなかった)ことにより、労働者(債務者)は給料をもらう権利(反対給付を受ける権利)がある、ということで、これについては特に問題はないかと思います。しかし、問題はその次の文言です。

「自己の債務を免れたことによって利益を得たときは、これを債権者に償還しなければならない。」

不当解雇により働けなかった(自己の債務を免れた)ことによって、他で働いて収入を得た(利益を得た)場合はその稼いだ分を会社に返さないといけない、ということです。
つまり、未払い賃金から不当解雇で争っている間に働いて稼いだお金の分だけ差し引いた額を会社は払えばいいということになります。
ちなみに、判例などをみると、「働い得た収入」は「元の会社で働かなかった」との因果関係が必要で、おおむね元の会社の所定労働時間内に働いた場合が該当する、という判断のようです。したがって夜8時から3時間働いた、とかいった場合はこれにが打とうしない、ということになりますが、その場合は元の会社の就業規則で副業の禁止をうたっていた場合は問題になるのではないかと思います。

実は似たような条文がもう一つあります。
それは、

労働基準法 第26条  
使用者の責に帰すべき事由による休業の場合においては、使用者は、休業期間中当該労働者に、その平均賃金の百分の六十以上の手当を支払わなければならない。


です。
ぱっと見ると民法536条第2項と非常によく似ています。
「不当解雇をした」会社(使用者)の責めによって、不当解雇の争いで労働者が働けなかった期間(休業期間中)について使用者は平均賃金の6割以上を支払わなければならない、ということです。
ここで注意しないといけないのは民法536条第2項には「自己の債務を免れたときは」云々の文言がないということです。
すなわち
平均賃金の6割より低くなることがない
ということです。

では、この民法と労基法の関係はどうなるのでしょうか?
結論から言うと、労働者を保護するという立場から、どちらでも労働者にとって有利な方を適用すればいい、ということです。
つまり、
20万円もらっていた人が争っているときに5万円稼いだとう場合、
民法536条第2項では 20万ー5万=15万 で15万円請求できることになり、
一方労基法26条では 20万×0.6で12万円請求できることになります。
すると、民法の方がお得ですから民法536条第2項を適用して15万円請求できます。

では、20万円稼いだ場合は、というと。
民法536条第2項では 20万円ー20万円=0 で請求できません。
一方労基法26条では 20万×0.6で12万円請求できます。
すると労基法を適用した方がお得になります。

つまり、
会社としては不当解雇を争っている間の未払い賃金に関しては、最低でも平均賃金の6割は支払わなければいけない(労基法26条)、場合によっては(民法536条第2項適用)全額支払いとなる、
ということになります。

労働基準法26条の条文がいかに労働者にとって有利な条文であるかがわかります。なぜなら、不当解雇を争っている間に労働者は安心して働いて生計を立てることができるからです。

けっここれって実務上でもややこしいんですよ・・

幸運は待っているだけでは降ってこない

米スタンフォード大学のJ.D.クランボルツという心理学者が提唱した「計画された偶発性理論」という理論があります。
キャリアコンサルタントの勉強をされた方なら名前くらいはご存知かと思いますが、これまでのキャリア理論とはちょっと変わっていて「キャリアプランニング」なんて意味ない、っていう考え方です。
では、なぜ「意味がない」のか?
それは、今現在「天職」と自分が考える仕事についている人のほとんどが若いころに今の仕事につくとは思っていなかった、という事実があるからです。また、クランボルツが調べたところでは18歳までになりたいと思う仕事に就いている人はせいぜい3%程度だそうです。
それなら、「将来○○になりたい」という思いはあんまり意味を持たないことになります。
確かに「少年時代の夢をかなえた」という人もいますが、そういう人は先の数少ない3%の人ということです。
では、なぜキャリア設計があまり意味をもたないのか、というと、それは

個人のキャリア形成は予期せぬ偶発的な出来事に大きく影響されるものであり、その偶然に対して最善を尽くし、より積極的な対応を積み重ねることによってステップアップできる。

からということです。
要するにどんな仕事につくかなんて結局偶然の支配が大きいから、そんなもの計画しても意味はない、ということです。
なんか、身もふたもない言い方ですが、現実の数字がそれが正しいことを証明しています。
では、単に偶然を待てばいいのでしょうか?
何をしても意味がないなら夢に向かって努力することも意味がないのでしょうか?

そうではありません。
確かにキャリア形成に関して偶然が大きな影響を与えていることは間違いありません。
しかし、そんな偶然をちゃんと生かしてハッピーになっている人と、生かしきれずにハッピーになれないでいる人がいるのも事実です。
つまり、自分の適職・天職を見つけ、ハッピーなワークライフを築いているひとは、偶然のチャンスをしっかりととらえて、それによって自分の仕事をステップアップしているということです。
偶然は確率論的に言えば、誰にでも平等に起こるはずです。しかし、それをちゃんとチャンスと認識してつかみとれているかどうか、という点で差が出てしまいます。

幸運な人は、いつ起こるかわからない(起こらないかもしれない)幸運をつかみ取るための準備を普段から行っている、ということです。
ただ、漫然と「いいことないかな」なんてボーっと待っていたりはしません。偶然性を高めるため、偶然性をつかみ取るため、何らかのアクションを起こしているということです。
よく言われることですが「宝くじは買わないと当たらない」というのもその一つの例かもしれません。
これはどこの国でも使われていることわざのようなのですが、

あるところに大変信心深い男がいました。
男は毎朝、毎昼、毎晩、ずっと神様にお祈りをささげていました。
何年も何年も休むことなく
「神様、どうか宝くじにあたりますように」
と祈り続けました。
神様はその男の熱い思いを大変よく分かっていましたが、どうすることもできず困ってしまいました。
そこである晩とうとう神様は男の夢枕に立つことにしました
「頼む、宝くじを買ってくれ」

というお話です。
この男は幸運をつかむための強い思いはありましたが、宝くじを買うという行動を一切行っていません。確かに祈るという行為はしていましたが、それだけです(それでも神様の気を引いただけでもましといえるかもしれませんが)。
本来であれば、宝くじを買う、という行為以外にも、どこで買えば当たる確率が高い、とかリサーチを行うこともできます。そうすることによって本当の偶然を引き寄せる可能性を高めることができるかもしれません。

要するに幸運をつかんでいる人は決して偶然をつかんでいるのではなく、日々なんらかの努力をしているということです。そして、目先に起こったチャンスをチャンスと認識できるように、常にオープンマインドでいる、ということです。
オープンマインドとは自分自身をオープンにするということだけではなく、すべてをあるがままに受け入れる姿勢をいいます。
人は何かチャンスがあっても、これは自分には向かない、とか、自分がするべきことではない、とか、何らかの色メガネをかけて物事を見がちですが、そういった色メガネをはずしてものを見ることができることです。
それによってチャンスをつかむ可能性が多きく膨らみます。偏見をもたずになんでもチャレンジする人、自分に向いてないと思いつつも与えtられた仕事を一生懸命頑張る人、そういう人ほど幸運をつかむチャンスが多くなるという考え方がクランボルツの考え方です。

では、先の二つめの疑問の答えですが、夢を持つことは意味がないのか?ということですが、そんなことはありません。夢を持つことは人生を活性化しますし、夢に向かって努力する姿勢は、その夢そのものではないにしても、別の幸運を招く可能性があるということです。

突き詰めた言い方をすれば、
「常にすべてを受け入れるオープンマインドを持ち、何事にも一生懸命努力する人ほど幸運が訪れる可能性が高い」
ともいえるのではないでしょうか。
やっぱ人間だらけていれはいけないようです。



プロフィール

気まぐれ社労士 

Author:気まぐれ社労士 
企業では安全配慮義務や労務管理、人事制度・諸規定など課題はたくさんありますが、今の企業では「疲れ」への対策がすごく重要です。少しでも人事関連で疑問やお困りのことがあればご連絡ください。きっと解決策が見つかります!





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